4.気持きもちよい生活せいかつは挨拶あいさつから
いまさら、儒教じゅきょうの道徳どうとくを振ふり回まわすつもりは毛頭もうとうないが、挨拶あいさつは、生活せいかつを気持きもちよくしていく上うえで欠かかせないものだ。
もし挨拶あいさつという潤滑油じゅんかつゆがなかったら、人ひとと人ひととのコミュニケこみゅにけ所しょんは、ずいぶんギクシャクしたものになるに違ちがいない。
自分じぶんが他人たにんと仲良なかよくなるのが下手へただとか、他人たにんとのコミュニケこみゅにけ所ところんがうまく行いかないと思おもっている方ほうは、挨拶あいさつをきちんとしているかどうかをチェックしてみた方ほうがいい。
精神的せいしんてきに落おち込こみ始はじめると、人ひとは挨拶あいさつするのが面倒めんどうになり、いつ省略しょうりゃくしがちになる。
しかし、なんでもないことのように思おもえるそうしたことが、実じつは、他人たにんとの間あいだに壁かべを作つくる大おおきな障害しょうがいになったりするのだ。
もちろん、挨拶あいさつはあくまでコミュニケ所しょんの取とりっ掛かかりにすぎないことも事実じじつである。
やたらに愛想あいそのいい人ひとの挨拶あいさつは、本心ほんしんを覆おおい隠かくすためのベルべるのような動うごきをすることもある。
気持きもちのよい挨拶あいさつというものは、やはり自然しぜんに出でてくるものだろう。別べつにこしらえるでもなく、意識いしきせずに、挨拶あいさつの言葉ことばを口くちにしているときには、自分じぶんの心こころが開ひらいている証拠しょうこだと思おもっていい。
少すこし挨拶あいさつに注意ちゅういを向むけてみるだけで、他人たにんとの関係かんけいが目めに見みえて変かわっていくこともありうるのだ。
気持きもちよい生活せいかつは挨拶あいさつから始はじまる。